恵みあるうちに 2014年 5月94号 「この世界の創造主」

恵みあるうちに 94号

 この世界は実によく出来ています。目を上げて空を見ても、道端の花を見ても全てが美しく、調和しています。私たちの周りにある水一つとってもその素晴らしさに驚かされます。
 すべての水は地球上で循環しています。海から蒸発した水は雲となり、雨となって山に降り注ぎます。その水は川となりまた海へと注ぎこむのです。こうして水は日々循環し、生物の生活を支えているのです。
 この循環構造一つとっても素晴らしいものです。実に世界は生物が生きるのに必要なものは全て備えられています。まるで誰か設計図を描いて創造したようです。その通り確かにこの世界を創られたお方がいて、この世界を保っておられるのです。

ーこの世界の創造主ー

 「初めに神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。 『光があれ。 』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。 」(創世記 1章1~5節)

この世界の始まり

 この世界、地球は永遠の昔から存在していたのではありません。この世界には明確に始まった時があり、 創造された時があるのです。皆様はこの世界の始まりについて考えたことがあるでしょうか?
 現在の世の中では進化論と、ビッグバン理論が、ごく一般的な常識として受け入れられています。宇宙は今から約百三十八億年前に時間と空間の区別がつかない一種の「無」の状態から忽然と誕生し爆発的に膨張し今の宇宙が構成されたと主張しています。また、この地球上においては生き物は弱いものより強いものが、単純なものからより高度なものへと進化していったといいます。その考え方には神様のご存在は一切なく、 全ては偶然に出来上がったと言っているのです。果たしてこの世界は偶然にできるのでしょうか?

神様によって造られた

 イギリスの物理学者にニュートンという人物がいました。彼は現在の科学にもたいへん大きな影響を与えた科学者です。彼は熱心なクリスチャンでした。彼は無神論者の友人に神様の存在を示そうと考えました。そこで彼は、太陽の周りを回る地球と、地球の周りを回る月の模型を作ったのです。そして、ある日その友人がこの模型を見る機会がやってきました。それを見た友人はニュートンに「この惑星の模型は一体誰が作ったのか?」と尋ねました。その彼の言葉を聞き、ニュートンは、こう答えました。
 「それは偶然にできたのだ。」この言葉を聞いた友人は少し怒りながらも、 「こんなに複雑な模型が勝手にできるはずはないだろう?」と問いただしました。するとニュートンはこう答えたのでした。
 「確かにこれは私が作ったものだ。 ところで、 君は無神論者で、この世界は偶然にできたと主張している。だが、このような模型でさえも偶然にできることがないならば、なおさらこの世界が偶然にできるだろうか?」
 無神論者であった友人はこの世界が神様によって造られたものであることを認めざるを得ませんでした。確かにこの世界の創造主がご存在されるのです。

なぜ神様を無視するのか

 ニュートンの話のように、この世界が偶然にできることは決してありません。神様が全てを設計し、造られたのです。では、なぜ人間はこの世界を造られた神様を否定し、進化論やビッグバン理論などを考えだしたのでしょうか?
 それは人間の罪に原因があるのです。人間はその罪のゆえ神様の存在を否定し、無視しています。そして、自らの欲望を第一とし、それを追い求める日々を送っているのです。小学校でも将来の夢を書かせます。そして、そのために努力することが非常に重要であると教えるのです。しかし、それは所詮自らの欲望を追い求めるための口実に過ぎません。人類はみな各々の欲望に従い、真の神様を無視しているのです。

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心はむなしくなりました。(ローマ人への手紙 1章21節)

 全人類は真の神様を無視し、無神論をとなえ、自分たちに都合の良い神を作り上げ、それに仕える偶像礼拝を行っているのです。これらは神様の前に非常に大きな罪です。

罪への報酬

罪から来る報酬は死です。(ローマ人への手紙 6章23節)

 さて、日本の社会において犯罪を犯した者は法によって裁かれ、その罪の罰を受けます。これは至極当然のことであり、受けるべき罰です。それは神様の前でも同じです。法を犯す罪はもちろんのこと、日常生活におけるどんなに些細と思える罪であっても、神様は決して見逃すことはなさらないのです。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル人への手紙 9章27節)

 この聖句のとおり、人間は一度死んで、死後に罪の裁きを受けることが定まっているのです。人間が欲望を追い求めた結果は、死であり、永遠の地獄での恐ろしい裁きなのです。この地獄は一度入ると二度と出ることはできません。死ぬことなく、永遠に身体を火で焼かれながら苦しみ続けるのです。全ての人間はこの地獄へと向かっています。

素晴らしい救い

 神様は人間を造り、生かしてくださっています。それは、人間を地獄で苦しめるために保っておられるのでは決してありません。神様は人間を愛し、ともに歩み、ご自身の栄光を現すために造られたのです。ですから、人間が地獄へ行くのを神様は喜んでおられません。そこで恐ろしい地獄からの救いを用意してくださったのです。
 それがイエス・キリストの十字架です。今から約二千年前に神様のひとり子であられるイエス様はこの世に来てくださいました。その生涯は罪の何ひとつない、 完全なものでした。 しかし、その生涯の最期に十字架に架かられたのです。
 なぜ、罪のないイエス様が十字架に架かられたのでしょうか?
 それは私たちの身代わりとなって罪の罰を受けるためでした。イエス様は十字架上で父なる神様から人間の罪に対する怒りと呪いをその身に背負い、苦しまれ死なれました。そして、墓に葬られ三日目に復活されたのです。人間は十字架で死なれ、復活されたイエス様を救い主、神様と信じることによって救われるのです。人間はこの素晴らしい救いを信じる以外には罪が赦される方法はありません。どうかこの新聞を手にとって下さったあなたがその罪を認め、イエス様を信じて天国に行くものとなってください。神様はあなたが天国に来るのを待ち望んでおられます。

目次