神様の愛
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書 3章16節)
この言葉は、聖書の中で最もよく知られています。神様がどれほど愛なるお方であるかが、示されているからです。
すべての人にとって、愛されることは大切です。しかし、誰にその愛を求めるかが問題です。決して裏切られることのない真実な愛、見返りを求めない愛。神様の愛は、まさにこの愛なのです。
そして、イエス・キリストが約二千年前、十字架で死なれた事実こそ、人々に対する神様の証なのです。
命を犠牲にした宣教師
一九五四年、青函連絡船「洞爺丸」は、青森県の沖合で台風に遭って転覆し、多くの犠牲者を出しました。犠牲となられた一人にディーン・リーパという
キリスト教の宣教師がいました。彼が海に投げ出され、荒れ狂う海上を漂っていた時、救命胴衣を着けない日本人が彼に近づいてきました。この日本人は今にもおぼれそうな状態でした。リーパー宣教師は彼に叫びました。「私はクリスチャンで、たとえ今死んでも天国に行くことができます。あなたもクリスチャンですか?」彼は必死に答えました。「いいえ、私はクリスチャンではありません。」リーパー宣教師は、身に着けていた救命胴衣を外すと、それを彼に渡して言いました。「これを着けてください。そして助かったら教会に行って、イエス・キリストを信じて天国に行く方となってください。」
彼が救命胴衣を着けると、リーパー宣教師は海中に沈んでいきました。そして日本人は、岸に打ち上げられ、九死に一生を得ることができたのです。なぜ、リーパー宣教師は自らの命を犠牲にしてまで一人の日本人を助けたのでしょうか。その答えは、彼が救い主と信じていたイエス・キリストのうちにあります。イエス・キリストは次のように語られました。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書 15章13節)
神の御子 イエス・キリスト
イエス様は、紀元前四年頃、ユダヤのベツレヘムの馬小屋で誕生しました。彼の母は、おとめマリヤでありました。イエス様は成長し、大工として家族の生活を支えました。そして、おおよそ三十歳の時、ユダヤの人々の前に自らが王であり、神の子であることを宣言しました。また、多くの奇蹟によって、その宣言が真実であることを証明したのです。多くの病人、罪人がイエス様のところに来ました。彼らはイエス様を信じ受け入れて、罪を赦していただき病気を癒やしてもらいました。しかし一方で、イエス様はユダヤ教から激しいねたみと殺意を抱かれ、迫害されるようになりました。そのような中でもイエス様は、救いを求める人々には、いつでもどこでも救いをお与えになりました。
十字架につけられた イエス・キリスト
その後、イエス様は弟子の一人に裏切られ、ユダヤ教の指導者たちに売り渡され、
十字架に付けられました。
そして、十字架上のイエス様は激しい苦痛の中で、なんとこの様に叫んだのです。
父(神様)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書 23章34節)
紀元三十年四月七日、イエス様は十字架上で死なれ墓に葬られました。しかし、イエス様は死後三日目に肉体をもって復活されたのです。その後、復活されたイエス様は、五百人以上の弟子たちに現れました。イエス様は二千年経った今も天国で生きておられるまことの神様であられます。
罪と死とさばき
人間は、必ず死を迎えねばなりません。また、人は死を恐れます。何故でしょうか。それは罪に対する死後のさばきが存在するからです。天地万物を創造された神様を無視し、自らの考えや欲望に従って生きることは、神様に対する大きな罪です。人間は例外なしにすべての者が罪人であるのです。法律を破れば犯罪としてさばかれるように、私たちの罪は、神様によって、死後の地獄で永遠にさばかれるのです。
救い主 イエス・キリスト
イエス様の十字架には重要な意味があります。それは、「あなたの罪のために」イエス様が死んでくださったことです。イエス様は私たちの罪を背負って、私たちの身代わりとなって十字架上で神様からの刑罰をその身に受けてくださったのです。
罪を悔い改めて、そして、このイエス様を信じる者は、地獄のさばきから救われ、天国に行く者とされます。
リーパー宣教師は、このイエス様の愛を伝えるために、自分の命を犠牲にして日本人を助けたのです。
どうか、あなたもこのイエス様を信じる方となってください。そして、天国に行く方となられますよう、心からお勧め致します。

