イエス・キリストが十字架で死なれた出来事は、突発的な悲劇でも、歴史の偶然でもありません。
そのはるか以前、すでに旧約聖書の中で、細部に至るまで預言されていた出来事でした。
千年前に記された十字架の光景
旧約聖書の詩篇22篇は、紀元前1000年頃に書かれたとされています。
驚くことに、この詩には、イエス・キリストの十字架の場面を思わせる言葉がいくつも記されています。
福音書に描かれた十字架の情景を知ってから読むと、「これはまさにあの場面だ」と感じざるをえないほど具体的です。
十字架刑という処刑方法が一般化するよりもずっと前に、手足が突き刺されるような苦しみや、周囲の人々の言葉、衣服の扱われ方までが記されていることは、人間の予想や想像を超えています。
「我が神、我が神、どうして…」
詩篇22篇1節には、こうあります。
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」
この言葉は、新約聖書マタイの福音書27章46節で、イエスが十字架の上で叫ばれた言葉と、ほとんどそのまま重なります。
「3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ・サバクタニ。』これは、『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』という意味である。」
イエスは、ただ苦しみを訴えておられたのではなく、自らが詩篇22篇の成就であることを、あえてこの最初の一節を口にすることで示されたとも理解できます。
嘲りの言葉までもが預言されていた
詩篇22篇8節には、次のようにも記されています。
「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
この表現は、十字架の下でイエスをあざけった人々の言葉と響き合います。
マタイ27章41〜43節には、祭司長たちや律法学者、長老たちがこう言ってイエスを嘲ったとあります。
「彼は神により頼んでいる。神のお気に入りなら、今救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
千年前に歌われた嘆きの詩の一節が、十字架の場面で、ほぼ同じ意味のことばとして再現されているのです。
神を信じて生きてきた方が、まさにその信仰ゆえに嘲られる――その痛みがここには描かれています。
衣服さえも、くじで分けられた
さらに詩篇22篇18節には、こう記されています。
「彼らは私の衣服を分け合い、私の着物をくじ引きにします。」
マタイの福音書27章35節は、イエスが十字架につけられた直後の様子を、次のように記します。
「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。」
主イエスの体だけでなく、その衣服の扱われ方までもが、旧約聖書にあらかじめ示され、その通りに成就しました。
人々にとっては何気ない行動であったかもしれませんが、神の側から見ると、それもまた計画の一部であり、預言の成就でした。
偶然ではありえない一致
これらは、詩篇22篇の中のほんの一部です。
旧約聖書に記された言葉が、1000年以上の時を隔てて、イエス・キリストの十字架の上で、イエスご自身の叫び、周囲の人々のことば、兵士たちの行為に至るまで、あまりにも正確に実現していることが分かります。
一つ一つを切り離して見れば「偶然」と言えるかもしれませんが、これだけ多くの要素が、一人の人物の一つの出来事の中で重なっていることは、単なる偶然では説明しきれません。
むしろ、聖書が人間の想像や作り話ではなく、神ご自身のご計画とご意志を記した書であることを証ししていると言えます。
十字架に現れた神のことば
イエスの十字架は、人間の罪の深刻さと、神の愛の深さがぶつかり合う場所です。
その中心に、旧約と新約をつなぐ「預言と成就」の筋書きが、確かに通っています。
十字架の場面で語られた一つ一つのことば、一つ一つの行為は、長い歴史を通して語り続けられてきた神のことばと、見事に響き合っています。
聖書は、単に「古い物語」を伝える本ではなく、今もなお、「この十字架はあなたのためのものだ」と語りかける、神の生きたことばなのだと教えられます。
この十字架に示された意味を、次の「聖書の示す救い」のテーマと合わせてたどるとき、神がどのような救いを用意しておられるのかが、さらに鮮明になっていくでしょう。

