人生の旅人 ー行き先はどこですか?ー
「人生とは旅である。ただし、この旅は片道切符しかなく、帰りの切符のない旅である。」とある人は語りました。確かに人生は一度きりで、やり直しが出来ません。旅を始めたばかりの方も、ずいぶん長く旅している方も少し立ち止まって、ご自身の人生の旅がどこに向かっているかを考えていただきたいと思います。
旅の途中で見る世界
人生の旅のスタートは誕生です。
この世に生まれてきて見るものはなんでしょうか。美しい世界です。花や果物、野菜、虫、魚、鳥、獣・・・。花は約25万種、動物は約150万種以上もいると言われており、多種多様な動植物が地上に満ちています。そして素晴らしい仕組みがこの地球には備えられています。生きるためになくてはならない水、空気、太陽の光と熱が調整されています。雲によって水が循環し、植物の光合成によって酸素が生み出され、太陽とのちょうど良い距離等が気温を一定に保っています。これらの仕組みはどのようにして出来たのでしょうか。偶然に、時間さえあれば勝手にできあがる物なのでしょうか。何でも仕組みがあるなら、それを考えた人が居ることが分かります。家なら設計した人、建てた人がいます。多様な生物にとって家のようなこの世界は偶然に出来るはずがありません。知恵と力をもって創造された神様が確かにご存在されるのです。人はこの世界を見て造り主なる、神様を知ることが出来ます。
主よ あなたの御業は何と多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。地はあなたのもので満ちています。(詩編 100篇24節)
人の罪と旅の終わりに待つもの
さらに、人生の旅の道中で見るものはなんでしょうか。人の罪です。家庭、学校、職場等、人が集まる所ではどこでも見られます。嘘、陰口、ねたみ、憎しみ、けんか、いじめ。傷つけられたという方も多いと思います。しかし、自分の心の内にもこのような醜いものが渦巻いていないでしょうか。人から受けた嫌なことは覚えていても、自分のした罪は忘れ、罪を犯したことさえ気付いていないかもしれません。神のことばである聖書には、造り主なる神様を認めず、木や石で作った神々を拝むこと、また神を認めずに無視することも罪であると記されています。
「旅の恥はかき捨て」と言われますが、人生で犯す罪も同じように忘れ去られるのでしょうか。捕まらなければ何をしても平気なのでしょうか。人が忘れても、全ての罪を見ておられる神様が忘れられることは決してありません。神様は聖く、正しく、罪を憎み、必ず裁かれる御方です。人間は死後に人生で犯した罪の裁きを受けなければならないのです。
死後の裁きとは、火の池である地獄に投げ込まれ、永遠に苦しみを受け続けることです。地獄は一度入ると二度と出ることは出来ません。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル人への手紙 9章27節)
地上の旅の終わりは死です。しかし、死は終わりではありません。その先にある、永遠の始まりなのです。
天から来られた救い主
神様は罪を犯して、地獄に向かっている人間を愛してくださいました。今から約2000年前、罪のない神のひとり子、イエス・キリストが、天から人となってこの世界に来られ、十字架にかかって死なれたのです。それは、みなさまが死後に受けなければならなかった罪に対する罰を身代わりに受けるためでした。イエス・キリストは、十字架上で確かに死なれ、死後3日目によみがえられました。その後、弟子達の前に現れ、40日後に彼らの見ている前で天に昇って行かれました。この方こそ、人間の罪をゆるすために神様が遣わされた救い主です。今も生きておられ、罪人を死後の裁きから救ってくださいます。
キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた(テモテへの手紙 第一 1章15節)
大切なことは、みなさまが神様に対して罪を犯し、地獄に向かっていることを認め、神様に対する間違った態度を悔い改めて、救い主イエス・キリストを自分の神、救い主として信じることです。神様は、イエス・キリストを信じる全ての者に、この救いを与えて下さいます。神様は、みなさまが救いを求めることを待っておられるのです。
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント人への手紙 第二 6章2節)
旅の分かれ道
みなさまの人生の旅はどこに向かっているでしょうか。行き先を変えることが出来るのは、生きている今だけです。どうかイエス・キリストをお信じになり、天国への旅人となって下さい。

