うるま恵みキリスト教会

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福音新聞

No.32 イエス・キリスト

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「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。
しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」
ペテロの手紙第一 2章22節〜25節

上記の聖書のことばは、キリストの第一の弟子であった使徒ペテロによって書かれたものです。彼は元はガリラヤ地方の漁師でしたが、キリストの弟子として召されてからは、3年以上キリストと寝食を共にしました。

相手のことをあまり知らないときには、その人の欠点や短所もわかりません。しかし、付き合いが深くなれば、そうした面が見えてくるものです。まして、3年もの間、生活を共にすれば、何らかの欠点が見つかっても不思議ではありません。それにもかかわらず、ペテロは「キリストには何の罪もなかった」と証言したのです。

では、この証言は誇張や虚偽だったのでしょうか? それは考えにくいことです。福音宣教はキリストの十字架の死と復活の約50日後に始まりましたが、ペテロはその中心人物として熱心に活動しました。宣教は直ちに困難と妨害に晒されましたが、ペテロたちは命を懸けて伝道を続け、最終的にペテロは64年または67年に殉教したと伝えられています。

ペテロは、自らの命を懸けてキリストを信じ、宣べ伝えました。ですから、冒頭の言葉はペテロの命がけの証言であると言えます。現代の裁判でも、命がけの証言は真実性が高いと評価されます。従って、ペテロの証言は信頼に値するものです。また、この証言は聖書全体とも矛盾しておらず、一貫してキリストが罪のないお方であることを示しています。

一方で、キリスト信仰に対して反感を持つ人もいます。それは、宗教の名の下で残虐な戦争や侵略が繰り返されたことが原因です。 しかし、それらの行為は 「キリストを利用した」ものであり、「キリストのために」行われたものではありません。いかなる戦争や侵略も、キリストの教えに反しています。キリストの名の下に行われた暴力や支配は、実際には人間の欲と罪に基づくものであり、聖書には「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」 (ローマ人への手紙3章15~17節)とある通りです。
ペテロの証言にもあるように、キリストご自身は侮辱や攻撃を受けても一切抵抗せず、無実でありながら十字架にかけられました。そしてペテロも、その姿に倣って無抵抗のまま殉教しました。

主イエス・キリストは、人となられた御子なる神です。多くの病人を癒し、死人を生き返らせ、嵐を鎮め、水の上を歩くなど、数々の奇跡を行われました。それらはすべて、人々への愛と神の恵みを示すためでした。しかし、捕らえられた後は一切の奇跡を用いず、不当な裁判の末に十架刑に処せられました。

では、なぜキリストは十字架にかかり、死なれたのでしょうか。それこそが、キリストがこの世に来られた目的だったのです。

キリストはこう語られました。「もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、 片手でいのちに入るほうがよいのです。」(マルコの福 音書 9章43節)

これは、「罪を犯すならば、神の裁きを受けなければならず、それは永遠の地獄での苦しみである。しかし、どんな犠牲を払っても地獄に行ってはならない」という意味です。罪ある私たち人間は、死後地獄で裁きを受けなければなりません。しかし、私たちの罪の罰を身代わりに受けるために、キリストは十字架にかかって死んでくださいました。そして、死後3日目に復活し、死に打ち勝たれたのです。

神から離れた人生は、群れから迷い出た羊のようです。人生の意味や目的を見出すことができず、やがて死を迎え、永遠の滅びに至ります。キリストは、そうした私たちを救うために来られました。誰でもイエス・キリストを救い主と信じて受け入れるなら、すべての罪が赦され、天国に入ることができます。また堕落や誘惑などの危険からも守られて、天に向かって生きることができます。もはや迷える者ではなく、信仰によって神に立ち返ったものとなるからです。どうか皆様も、イエス・キリストを信じ、神に立ち返る方となってください。

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