No.23 我々はどこから来たのか
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
19世紀、フランスにゴーギャンという画家がいました。彼は、金を求める競争社会や西洋文明に失望し、本当の喜びと幸せを求めて南太平洋のタヒチ島に渡りました。タヒチ島こそ、地上の楽園であると思ったからです。タヒチ島に移り住んだ当初、陽気な絵を多く描いたゴーギャンですが、その画風は次第に暗くなっていきました。タヒチ島にも犯罪があることを見、彼自身も貧困や病気で苦しみ、幸せを見いだすことができなかったからです。そして彼は、一枚の絵を描いた後、ヒ素を飲んで自殺を図りました。その絵の左上には「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という題名が記されています。
このゴーギャンの問いかけは、私たちも真剣に考えなければならない問題です。なぜなら、人間が「どこから来たのか」「何者か」「どこへ行くのか」を知らずに、幸いな人生を生きることはできないからです。あなたはこれらの答えを持っておられるでしょうか。
ゴーギャンは、ついにこの答えを見つけることなく、悲しみと絶望のうちに死んでいきました。しかし、聖書の中にはこの答えがあるのです。
我々はどこから来たのか
『このわたし(神)が地を造り、その上に人間を創造した。』(聖書:イザヤ書 45章12節)
多くの人は、「人間は偶然に進化してきた」と考えています。もしこれが本当なら「人間は偶然にできた存在であり、存在の理由も人生の目的もなく、死ねば消えてなくなるのだから、生きている間にやりたいことをやりたいようにやればいい」ということになります。このような考えであるなら、人々が今の楽しみを求めて欲望のままに生きているのも、心が空しく満たされないのも、命の尊さがわからず自分や他人の命を粗末に扱うのも、全てうなずけます。
けれども、私たち人間は決して偶然の存在ではありません。私たちは、神によって造られました。ですから、私たちの体は、実に素晴らしい仕組みを持っているのです。
我々は何者か
『わたし(神) の名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。』(聖書:イザヤ書 43章7節)
人間が神によって造られた以上、創造主である神を抜きにして、人間について語ることはできません。神を認めてこそ、人間が何者であるかを知ることができるのです。
神は、人間を神の栄光を表すため、神の愛の対象として造られました。人間は、神の愛を喜び、神と共に歩み、神がいかに素晴らしい御方かを示すために造られたのです。ですから、人間には知性・感情・意志があります。そして人間は、神を知ることができ、神を喜ぶことができ、神と共に生きることができます。私たちは、このような素晴らしい目的をもって造られた、特別な存在なのです。
しかし人間は、神のご存在を認めず、神を無視して生きています。神から離れた人間は、金を愛し、あらゆる快楽を追求しています。しかし、その結果は心の空しさです。親から離れた迷子に安心がないように、神から離れた人間にも安心がありません。
我々はどこへ行くのか
『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』(聖書:ヘブル人への手紙 9章27節)
神に造られた人間が神を無視して生きることは、空しいだけではなく、神への反逆であり、神の主権をあなどる大きな罪です。絶対主権者であられる神は、神に逆らう罪人をおさばきになります。私たちは、自分の犯した罪に対する刑罰を、死後に地獄で永遠に受けなければなりません。
しかし、私たちを愛しておられる神は、罪人を救うために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをこの世に遣わされました。イエス様は三十数歳の時に、十字架にかかって死なれたのです。その死は、私たちの全ての罪を背負って、身代わりに神からの刑罰を受けるためでした。神は、私たちが地獄で受けるべき苦しみを、全てイエス様の上に下してくださったのです。そして、イエス様は死後3日目によみがえられ、ご自分が救い主であることを示してくださいました。
『御子(イエス・キリスト)を信じる者はさばかれない。』(聖書:ヨハネの福音書 3章18節)
このように、神は聖書を通して約束しておられます。あなたが、ご自分の罪を認め、十字架で死なれたイエス様を「私の救い主」と信じ受け入れるならば、神はあなたの罪を赦してくださいます。そして、あなたを喜んで天国へ入れてくださるのです。
どうかイエス・キリストを、あなたの救い主として信じ受け入れてください。そして、「私は神によって造られ、今神と共に歩んでいる。そして神の御許である天国へ向かっているのだ。」と喜ぶことのできる方となってください。