何のために生きているのか?(2023年春号)
見出せぬ存在意義
A君が初めて教会を訪れたのは、新年が明けて間もない頃でした。彼は都会の就職先に内定が決まり、大学卒業を控えていました。それだけを聞くと明るい未来が開けているように思えますが、彼には大きな悩みがありました。
彼は、若くしてリウマチを患い、一時は足が動かせなくなり、車椅子生活を強いられました。そして、自分の存在が両親に負担ばかりをかけていると思うと「一体何のために自分は存在しているのか?自分に存在価値はあるのだろうか?」と考えるようになりました。精神的に落ち込み、大学の研究も手に付かなくなり、お世話になっている大学の先生にまで迷惑をかけてしまっている自分を、ますます卑下するようになりました。そんな彼を心配したクリスチャンであるその先生が、彼を教会に連れてきたのです。彼は、自分の存在意義を見出せず、深く悩んでいました。
存在意義を見出せない理由
あなたは自分が何のために生きているのか、その答えを持っておられますか。多くの方は、A君のように、存在意義を見出せていないのではないでしょうか。これは大変不思議なことです。なぜ自分の体の各器官については「目は見るため」「耳は聞くため」「鼻は嗅ぐため」と存在意義を即答できるのに、それらでできている自分自身については答えられないのでしょうか。
それは、創造主なる神の存在を否定しているからです。神の存在を否定すると、必然的に人間を含めたこの宇宙は「偶然の産物」になります。偶然の結果には目的も意図もありませんから、偶然存在するようになった人間には本質的な価値はないことになります。
しかし本当に、宇宙も人間も偶然にできたのでしょうか。宇宙にはすばらしいデザインと秩序があり、生命には複雑な仕組みがあります。デザインはデザイナーの存在を、仕組みは工作者の存在を証明しています。ビッグ・バンという言葉を初めて使ったフレッド・ホイル博士は次のように言っています。
「偶然によってこの宇宙と生命が発生したというのは、たとえて言うなら、ゴミ捨て場に竜巻がやって来て、偶然に飛行機ができたというようなものだ。」
偶然にできた飛行機など存在しないように、人間も偶然にできた存在ではありません。創造主なる神が人間を造られたのです。
聖書が語る人間の存在意義
神が人間を造られたということは、そこに目的と意図があるはずです。聖書は次のように語っています。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)
神は人を「神のかたち」として創造されました。神は霊的なご存在であられるので、「神のかたち」とは「肉体」ではなく「霊的存在」という意味です。あらゆる生物のなかで、人間にだけ「霊」が与えられています。霊とは神と交わりを持つ部分で、神を認識し、恐れ、頼るなどの働きをします。神が人間に霊をお与えになったのは、人間にご自分を認識させ、恐れさせ、頼らせるためです。つまり、神は人間を「交わりの対象、愛の対象」として、特別な存在に創造されたのです。そして、人間はその愛に喜んで応えて神を礼拝することで、神の栄光を現わす存在となるのです。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。」(イザヤ43:7)
あなたは神に愛されるため、神の栄光を現わすために造られたのだと、聖書は教えています。人種・国籍・年齢・性別に関係なく、すべての人は、神にとって尊い存在なのです。
的外れな生き方とその結末
ところが、人間は神に愛されることよりも、自分の欲望を叶えることを選んで生きています。無神論を唱えたり、木や石で作られた像を神として拝んだりするのは、その表れです。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)
家出をする子どものように、人間は、高い道徳基準で全人類を支配しておられる神から逃げ、自由に欲望を叶えようとしているのです。聖書はそのような生き方を「罪」と語っています。聖書で用いられている「罪」という語は、元来「的外れ」という意味です。造られた目的から外れた生き方が罪なのです。
そして罪には刑罰が下ります。国家に逆らう者は法律によってさばかれるように、神に逆らう者は神の法によってさばかれます。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
神は、罪の刑罰の場所として永遠の火の池、地獄を用意しておられます。
存在意義の回復
人間は、地獄に投げ込まれるために生まれてきたのではありません。神は、人間が、造られた本来の目的に生きることを心から望んでおられます。
そこで神は、今から約二千年前にひとり子イエス・キリストを、救い主としてこの世にお遣わしになりました。そして、キリストを十字架にかけて、全人類の身代わりにして、さばいてくださったのです。さらに、キリストを死後三日目によみがえらせて、この方こそ唯一の救い主であることを明らかにしてくださいました。
その結果、自分勝手に歩んできたことを悔い改めて、キリストを信じる者は誰でも罪が赦され、死後は地獄ではなく天国に入ることができるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
腕時計が人間の腕にはめられてこそ価値があるように、人間は神のもとに帰り、神の愛と祝福の対象とされてこそ価値があります。どうか、イエス・キリストをお信じになってください。