教会新聞

聖書のエッセンス(2020年秋号)

恵みによって 聖書のエッセンス

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

上記の聖書のことばは、「聖書中の聖書」と言われている有名な一節です。聖書全体を通して語られている救いのメッセージが、この一節に要約されています。この聖書箇所から、神があなたに語っておられる救いのメッセージをお伝えいたします。

神は、

聖書は、神の実在を教えています。神とは、目に見えないけれども、人格を持って存在しておられる、この宇宙の唯一の創造主です。今もこの世界は神によって支配され、保たれています。あなたも、この神によって造られ、今も生かされているのです。人間が木や石を削って造った像は、本当の神ではありません。

実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

神は、世を愛されました。世とは、世にいる人間一人ひとりを指しています。愛は、言葉だけでは意味がありません。犠牲を伴ってはじめて示されるものです。神は、私たちのために「ひとり子をお与えになった」のです。「ひとり子」とは、イエス・キリストです。「お与えになった」とは、キリストをこの世に送り、すべての人の身代わりとして十字架上でさばかれた、という意味です。

滅びる

神が救い主を与えてくださったということは、人間は救いを必要としているということです。人間は、創造主なる神を神として認めず、自分の欲望のままに生き、多くの罪を犯しています。その結果、人間は死後に、地獄で罪の刑罰を受けなければならないのです。神は正しい方として、罪をさばかなければならないからです。「滅びる」とは、消滅することではなく、火の池に投げ込まれて、永遠に苦しむことを意味します。神は、地獄での刑罰からあなたを救うために、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけて、身代わりにさばいてくださいました。

それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

キリストは、ご自分が神であり救い主であることを示す証拠に、死後三日目に復活してくださいました。ですから、この方を信じるなら救われます。救いに、行いや金銭は必要ありません。ただ、神に逆らってきたこれまでの人生が誤りであったと認め、キリストを神として個人的に受け入れる信仰によって救われるのです。「永遠のいのちを持つ」とは、天国で神とともに永遠に生きることができるという意味です。どうかあなたも、御子イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを持つ方となってください。

教会に集えていないクリスチャンの方へ

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

主イエスから離れていることは、クリスチャンにとって不健全な状態です。主イエスとの個人的な愛の交わりの中に生きてこそ、クリスチャンは神のご栄光のために生き生きと歩み、多くの実を結ぶことができるからです。キリストを生きる原動力としていた使徒パウロは、生も死も喜んで、このように語っています。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1:21~23)

神のお役に立てる喜び、キリストにお会いできる希望は、この世が与えるそれとは比べものになりません。

主イエスは次のように語られました。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

主イエスを中心としたクリスチャンの集まりに、主イエスは臨在しておられます。ですから、主イエスにとどまるということは、主の御名を重んじる教会に集まることをも意味します。教会に集えていないのは、様々な事情があってのことでしょう。しかし、主から離れた状態では「あなたがたは何もすることができないのです。」主イエスから離れた人生に、本当に満足がありますか。

主があなたを救ってくださったのは、あなたの一生を永遠に価値ある人生とするためです。主は、あなたが地獄から救われただけでは決して満足しておられません。よりいっそうの祝福を恵むことが神のみこころです。どうかこの機会に、もう一度教会に足を運んでくださり、主イエスにとどまる方となってください。

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