本当の平安とは何か?(2025年秋号)

①一枚の絵に描かれた平安
ある美術コンテストで、「平安」というテーマの作品が募集されました。応募作品には、のどかな田園風景や、母の腕に抱かれて眠る子どもの姿など、いかにも穏やかな安らぎが描かれたものが多くありました。
しかし、最優秀に選ばれたのは、嵐が荒れ狂う中、岩の割れ目に巣を作り、嵐をしのいでいる鳥の親子を描いた1枚の絵でした。このエピソードが示すのは、平安とは単に環境が静かで穏やかであることではないという事実です。周囲の状況がどんなに混乱していても、内側で決して揺るがされない心の安らぎこそが「本当の平安」なのです。
②神にある平安
今から約3,000年前、ダビデというイスラエルの王がいました。彼はとても多くの困難を経験しました。命を狙われる恐怖、戦いの苦難、罪による痛みなど、これらの中で何度も不安に襲われてきました。しかし、ダビデは苦難のただ中でこう歌いました。
「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は決して揺るがされない。」(詩篇62篇1、2節)
彼が見出した平安の源は、神への信頼でした。外側の状況に関わらず、心を支える「岩」としての神に拠り頼んでいたからこそ、揺るがない平安を持つことができたのです。
③平安の奪う最大の問題
現代の私たちにとっての「揺るがない平安」とは何でしょうか。人間にとって避けられない最大の問題は「死」です。人は、どれほどの富や健康、幸せな家庭を手にしても、死を前にしてはすべてが無力なのです。死は無になることではありません。人は死ぬと死後の世界に向かいます。そこで神からの裁きを受けることになるのです。
この世界は、創造主によって造られました。この御方こそ唯一の神です。
「はじめに神が天と地を創造された。」 (創世記1章1節)
しかし残念ながら、人は神の前で多くの罪を犯して生きているのです。嘘、憎しみ、ねたみ、不品行、偶像崇拝、これらは全て神に対する罪です。そして何よりも大きな罪は、神を神とせず、むしろ創造主の存在を否定して、自分勝手に生きるという罪なのです。これらの罪のゆえに、人は死後、神の前にさばきを受けなければならないと聖書は警告しているのです。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 (ヘブル9章27節)
罪の裁きを受けた人間が向かう先は永遠の炎が燃えるゲヘナと呼ばれる地獄なのです。人間にとって死が最大の問題である点は、死後に確実にこの裁きが待ち受けているということなのです。
「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」 (黙示録21章8節)
この問題を解決しない限り、真の平安は決して得られないのです。
④罪の赦しによる本当の平安
しかし、神は義なるお方であると同時に、愛なるお方です。人が地獄に行くことを望まず、すべての者が救われることを願っておられます。
神はその大きな愛ゆえに、救いの道を備えてくださいました。今から2,000年前に、神はご自分の愛する御子をこの地上に送って下さり、人として生まれさせて下さいました。それが主イエス・キリスト様です。イエス様は公生涯の最後に、私たち人間が受けるべきであった罪の刑罰を背負って十字架にかかり、身代わりとなって死んでくださったのです。そして3日目に死を打ち破ってよみがえられたのです。今や誰であっても、イエス様を自分の救い主として信じる全ての者に、神は罪の赦しと永遠のいのちをお与え下さるのです。もはや地獄で裁かれることは決してなく、天国で永遠に生きる者とされるのです。
聖書は次のように語っています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)
⑤本当の平安への招き
本当の平安とは、人間の努力や環境から生まれるものでは決してありません。どのような苦難や死に直面しても揺るがない平安は、ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられるものです。
どうか、あなたもイエス様をご自分の救い主と信じ、この救いを受け取ってください。そして、どんな問題に囲まれても、たとえ死に直面しても揺るぐことのない「本当の平安」を持つ方となってください。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 (マタイ11章28節)