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悔い改めと信仰

「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」 使徒の働き 20章21節

この聖句は、パウロのエペソでの伝道を要約したことばです。パウロは、福音を語ったときには、誰に対しても悔い改めと信仰を迫りました。なぜなら、人が救われるためには悔い改めと信仰の両方が必要であるからです。

この聖句の中の「悔い改め」と「信仰」という語は、一つの定冠詞で結ばれています。すなわち、この二つは、硬貨の表裏のように決して切り離すことができないものであるということです。そして、それぞれが、救いに必要な一面を強調しているのです。

悔い改めとは、「メタノイア」の訳で、神に対する心の向きを変えることを意味します。織田昭氏は、この語を次のように定義しています。

「神の前に生き方の基礎になっている考え方を根底から改めること、特に自己の主権を放棄し、自己の行為の義への依存を捨て去ってキリストに全く依存し、キリストをわが全生活の主とするという、心の根本的な切り替え」(新約聖書ギリシヤ語小辞典 P368)。

人は、生まれながらに神の主権や支配を拒み、自らを神の座に着けています。しかし、その態度が誤りであったと認め、自らを神の座から降ろし、神の主権を受け入れることが悔い改めです。

一方、信仰とは、キリストを個人的な主・神として受け入れることを意味します。

従って、悔い改めを伴わない信仰は存在しません。自らを神の座に着けたまま、キリストを個人的な神として受け入れることなど不可能だからです。ですから、福音を語る者は、主イエスに対する信仰だけでなく、神に対する悔い改めをもはっきりと主張しなければなりません。悔い改めを説かない説教は、口先だけの信仰告白者を生み出す原因ともなります。信じるだけで救われる−−もちろんこれは真理です−−と聞いて、簡単に信仰を告白するものの、悔い改めが伴っていないため、依然として自己の主権を保持している者が信者の群れに加わることになります。そのような者たちは、相変わらず自己中心的で、神にも教会の権威にも従おうとしません。思い通りに生きることに咎めを感じることもないのです。そして、信者として受け入れられているので、却って教会に対して悪影響を及ぼし、集まりを腐敗させる原因ともなってしまうのです。

バプテスマのヨハネは、「悔い改め」に非常にこだわっていました。彼の説教の中心は悔い改めであり、悔い改めに基づくバプテスマを授けていました。ユダヤ教の指導者や教師たちが彼からバプテスマを受けようと大勢やってきた時に、ヨハネは彼らの信仰告白が偽りであることを見抜いて「まむしのすえたち。・・・それなら、悔い改めにふさわしい実をむすびなさい。」(マタイ3:7,8)と厳しく叱責しました。悔い改め自体はあくまで心の向きの変化ですが、心の向きが変化したならば、当然、実生活にも変化が見られるはずです。偽りの悔い改めにはそのような生活の変化はありません。ヨハネは、口先の告白では満足せず、実を結ぶ真実な悔い改めを要求したのです。そうでなければ、「必ず来る御怒りをのがれる」(マタイ3:7)ことはできないからです。

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