いつも主のわざに励みなさい
2014年2月19日
「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」 コリント人への手紙第一15章58節
パウロは、コリントの信者たちに「いつも主のわざに励みなさい。」と書き送る必要がありました。なぜなら、主のわざに励んでいた彼らを動揺させる誤った教えが、コリントの教会に入り込んでいたからです。その誤った教えとは、「死者の復活はない」(コリント人への手紙第一15章12節)という教えです。死者の復活とは、キリストが花嫁である教会を天に引き上げるために空中まで迎えに来られた時に、キリストにある死者が栄光のからだによみがえらされるという教えです。死者の復活がないということは、つまり、人間は死んでしまえば終わりであり、肉体が土に帰るだけであるということです。
もし死者の復活がないならば、いくら主のために労苦しても、その労苦はむだであるということになってしまいます。「死者のゆえにバプテスマを受ける人たち(殉教した信者の代わりに伝道チームに加えられる人たち)」(コリント人への手紙第一15章29節)は、殉教者が出るような危険な宣教地に行って、単に寿命を縮めるだけということになります。「エペソで獣と戦った」(コリント人への手紙15章32節)パウロも愚かな行為をしたに過ぎなくなります。むしろ、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(コリント人への手紙第一15章32節)と言って、目先のことだけを考えて、この世を楽しむ罪の生活こそが、まるで賢い生き方であるかのようになってしまうのです。
しかし、「思い違いをしてはいけません。」(コリント人への手紙第一15章33節)「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(コリント人への手紙15章52節)この死者の復活の根拠は、キリストの復活です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への手紙第一15章20節)初穂は、畑の中で一番早く出て来る穂です。初穂の質は、これから同じ畑から出て来る穂の質を代表しています。それと同様に、キリストが初穂として、栄光のからだをもって復活されたので、キリストにある死者たちもキリストの再臨の時に必ず栄光のからだによみがえらされるのです。そして、キリストのさばきの座に現れて、肉体にあってした行為に応じて主から報いを受けることになるのです。ですから、主のための労苦は決してむだではありません。たとえ、主のために殉教することになっても、復活があり、死に至るまで忠実であったゆえに、豊かな報いを受けることになるのです。
私たちには、死者の復活というすばらしい望みがあります。それにも関わらず、死を恐れて主のわざに励もうとしないのは残念なことです。まして、この世を楽しむ生活を送るのは、狂気の沙汰です。私たちの労苦は、主にあってむだでないのですから、いつも主のわざに励む者でありましょう。