アダムとキリスト
2015年6月16日
「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5章17節)
アダムとキリストを対比することは、実に興味深いことです。アダムは古い人類のかしら(代表)であり、キリストは新しい人類のかしら(代表)です。古い人類はアダムと一体であり、アダムの罪の結果を全てその身に負っています。一方、新しい人類はキリストと一体であり、キリストの十字架の御業によってもたらされる全ての祝福にあずかっています。
ここでは、人間一人ひとりが何をしたかではなく、人類のかしらであるアダムとキリストが何をしたのか、そしてその結果、彼らに属する人類に何がもたらされたのかが語られています。私たちはキリストを信じるまで、アダムをかしらとする古い人類の一員でした。しかし、キリストを信じた私たちはキリストをかしらとする新しい人類の一員とされ、キリストにあって全ての祝福にあずかっています。
アダムは自分に属する人類に罪をもたらしました。エデンの園でアダムが罪を犯した結果、アダムの子孫は生まれながら罪人となりました。アダムの子孫は皆、罪の奴隷です。そして、罪によって死がもたらされました。人間は死ぬべき存在となり、人間は死の恐怖の奴隷となりました。そしてアダムはあの罪によって、神様から人類への有罪判決を引き出しました。アダムにあって、古い人類はのろわれ、地獄でさばかれる者となったのです。
一方でキリストは、十字架で御血を流されることによって、御父の罪に対する怒りをなだめてくださり、義認判決を引き出してくださいました。キリストによって、信じる私たちは神の御前で義と認められました、それどころか、アダムの子孫であった私たちはキリストと共に十字架で死に、キリストと共に新しい人類の一員としてよみがえらされ、キリストのいのちにあって生きる者とされました。現に今、私たちの中にはキリストからの永遠のいのちが宿っており、王のように力強く支配することができるのです。どうか、信仰によって、この祝福を味わう者でありましょう。