御霊によって歩み続ける(その1)
2014年9月16日
「それで、私は言います。御霊(の力)によって歩み続けなさい。そうすれば、決して肉の情欲を満足させません。」 ガラテヤ人への手紙5章16節
私たちのからだの中には、新しいいのちの性質と肉の性質の二つの相反する性質があります。新しいいのちの性質は神を愛し、神に従うことを喜びますが、肉の性質は神に反抗し、欲望を満たすことを第一に追求するのです。そのため、私たちのからだの中では、新しいいのちと肉との間でいつも激しい対立が生じるのです。
私たちは神を愛しており、神に従いたいという願望を持っているので、神の栄光のために歩もうとするのですが、その歩みを肉が常に妨げるのです。そして、新しいいのちと肉が対立すると、必ず新しいいのちは肉に敗北してしまうのです。「私は、私の肢体の中に、私の心の法則に対して戦いを挑み続け、私の肢体の中にある罪の法則によって私を虜にし続ける、もう一つ別の法則(があること)を見つけています。」(ローマ7:23)パウロがローマ人への手紙7章で「(善を行いたい)意志は、いつも私の身近にあります。しかし善を行うことはありません。私は自分が欲している善を行っていません。その反対に私が欲していない悪を、実に、それを実行しています。・・・ああ、私は、なんと哀れな人間でしょうか。」(ローマ7:18、19、24)と語ったみじめな経験は、新しいいのちと肉との戦いの結果なのです。
新しいいのちが肉に敗北してしまう理由は、肉の中には罪という強力な力が宿っているのに対して、新しいいのち自体にはその願望を実行する力がないということです。それはちょうど、優れた性能を備えた車があっても、ガソリンが入っていなければ全く走ることができないのと同じです。ですから、新しいいのちの意志で善を行おうと決心し、「すがるな。味わうな。さわるな。」(コロサイ2:21)と言った禁欲的な方法や戒めを守ろうとする努力によって肉の欲望を押さえ込もうとしても、「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロサイ2:23)いや、それどころか、「戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」(ローマ7:9)とパウロが語っているように、戒めを意識することで却って罪が刺激されて余計に反抗的になり、肉を活発に働かせることになるのです。
これは、私たちの歩みにおいて大きな問題です。肉が新しいいのちに対して戦いを挑んでくるのは、毎日の問題です。そして、新しいいのちが肉に対して無力であるという事実は、信仰歴の長さや信者の経験値によっても決して変わりません。ですから、もし自力で肉に立ち向かう以外に方法がないとしたら、私たちの信仰生活は哀れな敗北の連続でしかないことになります。しかし、神に感謝しましょう。神は「御霊(の力)によって歩む」という勝利の秘訣を私たちに与えておられるのです。