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型と本体

[:ja]

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」コロサイ人への手紙2章16〜17節

聖書は、権威ある神のことばです。それゆえに、信者が聖書に対してとるべき唯一の態度は、神の権威を認めて、聖書を文字通りに理解し信じることです。ですから、敬虔な信者は、聖書を文字通りに受け取らずに独自の発想によって解釈する比喩的解釈を排除します。生きていて力のある神のことばは、正しい態度で聖書を読む者にのみ語りかけ、真理の理解を与えます。

しかし、聖書を文字通りに理解すると言っている者たちが、一見すると文字通りの意味以上の理解をもって旧約聖書を教える場合があります。それは、聖書自らが、型と本体あるいは影と実物(ヘブル10:1)について教えているからなのです。本体(実物)とは新約聖書の中で明らかにされた真理のことであり、型(影)とは旧約聖書の中に暗示されていたその真理の予表のことです。旧約聖書だけを読むとイスラエルの歴史あるいは彼らの様々な儀式的習慣としてしか理解できない箇所が、新約聖書の真理の光で照らした時に、それらが真理の型であることを発見するのです。ですから、旧約聖書のある出来事や教えをある真理の型として学ぶことがあるのです。

これは、聖書の権威を認めない比喩的解釈とは全く異なるものです。聖書を比喩的に解釈する者たちは、気ままな発想によって、飛躍的でひねくれた解釈をします。そのため、解釈者によって解釈がばらばらになります。しかし、聖書の権威を認める者は、聖書の解説に従って型を理解します。たとえば、冒頭のコロサイ人への手紙のみことばを根拠に、律法に定められていたイスラエルの様々な習慣の記録をキリストの型として理解するのです。これは、独自の解釈ではなく、神からそう理解する許可を得ているのです。

その他にも、アダムをキリストの型として(ローマ5:14)、アダムとエバをキリストと教会の型として(エペソ5:31〜32)、創世記22章の出来事を神がひとり子を十字架にかけられたことの型として(ヘブル11:17〜19)、過越の子羊をキリストの型として(Ⅰコリント5:7)、レビ記に記されている五つのいけにえをキリストの型として(ヘブル10:1〜10)荒野でイスラエルについて来た岩をキリストの型として(Ⅰコリント10:4)、会見の天幕である幕屋を天にあるまことの聖所の型として(ヘブル8:5)理解することが許されています。

その上で、それらの箇所の細部においては、人間の空想が入り込まないように注意し、聖霊に依り頼みながら学び、神によって解き明かしていただくのです。「聖書は、聖書によって理解する」というのが鉄則です。

旧約聖書は、聖書を愛する者にとって真理の宝が無尽蔵に隠されている金鉱のようなものです。私たちは、より一層の熱意と祈りを持って、真理の宝を掘り起こし、真理の尊さ、素晴らしさを味わう者でありましょう。

[:en]

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」コロサイ人への手紙2章16〜17節

聖書は、権威ある神のことばです。それゆえに、信者が聖書に対してとるべき唯一の態度は、神の権威を認めて、聖書を文字通りに理解し信じることです。ですから、敬虔な信者は、聖書を文字通りに受け取らずに独自の発想によって解釈する比喩的解釈を排除します。生きていて力のある神のことばは、正しい態度で聖書を読む者にのみ語りかけ、真理の理解を与えます。

しかし、聖書を文字通りに理解すると言っている者たちが、一見すると文字通りの意味以上の理解をもって旧約聖書を教える場合があります。それは、聖書自らが、型と本体あるいは影と実物(ヘブル10:1)について教えているからなのです。本体(実物)とは新約聖書の中で明らかにされた真理のことであり、型(影)とは旧約聖書の中に暗示されていたその真理の予表のことです。旧約聖書だけを読むとイスラエルの歴史あるいは彼らの様々な儀式的習慣としてしか理解できない個所が、新約聖書の真理の光で照らした時に、それらが真理の型であることを発見するのです。ですから、旧約聖書のある出来事や教えをある真理の型として学ぶことがあるのです。

これは、聖書の権威を認めない比喩的解釈とは全く異なるものです。聖書を比喩的に解釈する者たちは、気ままな発想によって、飛躍的でひねくれた解釈をします。そのため、解釈者によって解釈がばらばらになります。しかし、聖書の権威を認める者は、聖書の解説に従って型を理解します。たとえば、冒頭のコロサイ人への手紙のみことばを根拠に、律法に定められていたイスラエルの様々な習慣の記録をキリストの型として理解するのです。これは、独自の解釈ではなく、神からそう理解する許可を得ているのです。

その他にも、アダムをキリストの型として(ローマ5:14)、アダムとエバをキリストと教会の型として(エペソ5:31〜32)、創世記22章の出来事を神がひとり子を十字架にかけられたことの型として(ヘブル11:17〜19)、過越の子羊をキリストの型として(第一コリント5:7)、レビ記に記されている五つのいけにえをキリストの型として(ヘブル10:1〜10)荒野でイスラエルについて来た岩をキリストの型として(第一コリント10:4)、会見の天幕である幕屋を天にあるまことの聖所の型として(ヘブル8:5)理解することが許されています。

その上で、それらの箇所の細部においては、人間の空想が入り込まないように注意し、聖霊に依り頼みながら学び、神によって解き明かしていただくのです。「聖書は、聖書によって理解する」というのが鉄則です。

旧約聖書は、聖書を愛する者にとって真理の宝が無尽蔵に隠されている金鉱のようなものです。私たちは、より一層の熱意と祈りを持って、真理の宝を掘り起こし、真理の尊さ、素晴らしさを味わう者でありましょう。

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