御霊によって歩み続ける(その3)
2014年9月28日
「それで、私は言います。御霊(の力)によって歩み続けなさい。そうすれば、決して肉の情欲を満足させません。」 ガラテヤ人への手紙5章16節
残念ながら、御霊によって歩むという勝利の秘訣を知っていながら、実際には肉に敗北している信者がいます。それは、真理に力がないからではなく、その信者が実際的に御霊によって歩んでいないからです。真理を知ることは大切ですが、知識として蓄えるだけでは何の役にも立ちません。真理は、使用して初めて活かされるものです。
それでは、どうして実際には御霊によって歩まない者がいるのでしょうか。それは、彼らが肉によって歩むことをやめたくないから、言い換えれば、肉に対する信頼を放棄したくないからなのです。彼らは、肉を不活発にすべきものとは見ておらず、ある程度活発に働かせても構わないものと見ています。
御霊によって歩むとは、自分の人生の主導権を御霊に明け渡し、ゆだねることを意味します。そのためには、まず自分の肉に対する信頼を放棄しなければなりません。なぜなら、肉と御霊の両方に信頼するということはできないことだからです。御霊のご判断に従うということは、肉の判断をさばくということであり、御霊のご計画に信頼するということは、肉の計画を放棄するということなのです。
みことばを学んできた信者であるならば、肉が悪であるということを頭では分かっているはずです。しかし、心ではどうでしょうか。肉と言うと聞こえは悪いですが、生まれつきの優れた才能、培ってきた人生経験、人一倍の努力、計画性や知恵などと言い換えると、まるで活用できそうな良いもののように思えてしまわないでしょうか。創世記に登場するヤコブの取引の上手さの出所は何だったでしょうか。彼の計画性や知恵や算段は、何の力によったのでしょうか。それは、肉です。つまり、肉の行いの中には、不品行や争い、ねたみなどの明らかに邪悪な行いだけでなく、一見すると美しく役に立ちそうなものもあるということです。それらについても、肉から生じるものはやはり悪なのだとさばいているでしょうか。
かつてサウル王が、「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。」(Ⅰサムエル15:3)との命令を神から受けた時に、「アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」(Ⅰサムエル15:9)ように、肉の「良いもの」と「つまらないもの」を区別し、つまらないものについてはさばくけれども、良いものは神のご用のためになどと言って活用してはいないでしょうか。それは、肉に対する信頼です。それは、肉を活発に働かせることです。そして、それが御霊によって歩むことを妨げている原因なのです。