再臨の希望(その3)
2014年12月7日
2.栄光のからだに変えられる
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)
今、私たちが持っている肉体は、アダムの罪によってのろわれた「卑しいからだ」「死ぬべきからだ」です。旧創造の世界に属するこのからだの中には、罪に支配された肉があり、それが常に私たちの新しいいのちに対して戦いを挑み、私たちの歩みを妨げてきます。肉は、このからだから消滅することはありませんし、その力が弱まることもありません。ですから、この肉体にとどまっている限り、肉との戦いは日々繰り返されるのです。
また、このからだには、死があり、老いがあり、病があり、障害があり、疲労があります。そのために、私たちの行動が制限されることもあり、様々な痛み、苦しみを耐え忍ばなければならないこともあります。ですから、この卑しいからだは、新しいいのちを入れる器としては、不釣り合いなのです。新しいいのちは、もっと主イエスを愛し、いつも主イエスのために歩み、どんなことでも主イエスに従いたいと願います。しかし、「心は燃えていても、肉体は弱い」(マタイ26:41)ので、その願いを十分に果たすことができないというもどかしさに日々うめくことになるのです。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8:23)
しかし、主が来られたならば、私たちの卑しいからだは、今主が持っておられるのと同じ栄光のからだに変えられるのです。「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(第一コリント15:52)この栄光のからだについては、「朽ちないもの」「栄光あるもの」「強いもの」「御霊に属するからだ」(第一コリント15:42〜44)と書かれてあります。すなわち、アダムの罪によるすべてののろいから解放されたからだであり、死もなく、どんな弱さもないからだであるのです。その時には、すべての障害や病は消え去り、迫害によって受けた傷や後遺症のすべても消えてなくなります。また、罪の力もアダムから受け継いだ堕落した人間性である肉ももはやありません。ですから、その時から、私たちは何の妨げなく、何の制限を受けることもなく、永遠に主をほめたたえ、思う存分に主に仕えることができるのです。それはまるで、小さなカゴに閉じ込められた鳥が、自由に空を羽ばたくことができた時の解放感に満足するようなものです。これは、何という楽しみ、何という望みでしょう。「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:24)