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3つのくびき(その1)

くびきは、2頭の家畜を一組みにするための横木で作られた農具です。くびきをつけられた家畜は、横木にしっかりと固定され、もう1頭の家畜とペアを組んで労働を共にします。ですから、聖書全体を通じて、くびきは「束縛」や「連帯性」を表すものとして用いられています。

新約聖書には、私たちが負ってはならないくびきが2つ、負うべきくびきが1つ記されています。前者は「奴隷のくびき」と「釣り合わぬくびき」であり、後者は「主イエスのくびき」です。どのくびきを負うのかは、その後の私たちの歩みを決定付けます。前者のくびきを負う結果は、疲れ、苦悩、うめきです。しかし、後者のくびきを負う結果は、平安、喜び、生き生きとした奉仕です。ですから、私たちの幸いな歩みのために、これら3つのくびきについて学びましょう。

1.奴隷のくびき

「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

私たちが負ってはならないくびきの第一は、奴隷のくびきです。これは、ペテロが「私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびき」(使徒15:10)と呼んだ律法を指しています。律法は、ユダヤ人を束縛している恐ろしいくびきです。律法は聖なるものですが、人にそれを実行する力を与えません。ただ、人の絶望的な状態を暴露するだけです。無力な人間に実行不可能な義をひたすら要求し、出来なければ打ちたたくのです。あわれにも、ユダヤ人は、先祖がシナイ山で契約を結んでしまったために、生まれながらに律法の束縛の下に置かれているのです。

しかし、キリストを信じたユダヤ人信者は、もはや律法の束縛から解放されたのです。それは、彼らがキリストと共に律法に対して死んで、キリストと共によみがえらされたからです。彼らは、キリストにあって新たな立場を得たのです。そして、もともと律法の下になかった私たち異邦人信者も同じ立場に与っており、当然ながら律法の束縛下にありません。

ところが、このような立場にありながら、実際の歩みにおいて律法に束縛され、苦しんでいる信者があります。なぜなら、信者の中にある肉は、律法を好むからです。律法主義の本質は、自分の力で善を行って祝福を獲得し、自分を誇ろうとすることです。これこそまさに、肉が求めるものです。ですから、肉を宿している私たちにとって律法主義に陥る危険は常にあります。

律法主義の形は様々です。ユダヤ教のような儀式・形式主義や、カトリックの修道院的な禁欲主義などのあからさまなものをはじめ、初めの愛を失った惰性的奉仕や、ヤコブのように祈る形をとっていても実際的には自分の知恵で行動する生き方(創世記32章)のように知らず知らずの内に陥ってしまうものなど、多様です。しかし、すべてに共通しているのは、実際的に神に頼らないことです。

(続く)
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