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3つのくびき(その2)

もし私たちが実際的に神に依り頼んでいないのなら、私たちは律法主義の何らかの形、すなわち「奴隷のくびき」にはめ込まれているのです。その結果は、「あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。」(ガラテヤ4:15)、「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。」(ガラテヤ5:7)とあるように、喜びと力の喪失です。なぜなら、神に頼ることを止めたとたん、私たちは負いきれない重荷を自分ひとりで背負うことになるからです。

かつてモーセは、「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」(民数記11:14,15)と悲痛な叫びをもって神に訴えました。それと同じように、もし私たちもひとりで頑張り始めると、やがて奉仕を苦痛に感じるようになり、耐えられなくなり、行き詰まり、投げ出してしまいます。

では、この恐るべきくびきから逃れるにはどうすれば良いのでしょう。律法主義に陥る原因は、傲慢です。神に依り頼まずとも自分の力や知恵で何とかできるという自信や過信がその人を「奴隷のくびき」に導くのです。ですから、このくびきを解く第一歩は、自分の無力さを認めることです。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」(詩篇51:5)と歌ったダビデのように、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と叫んだイザヤのように、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言ったペテロのように、私たちは神の御前で自分自身のあわれな姿を明らかにされ、砕かれ、へりくだらされなければなりません。その砕かれたたましいが、肉に対する信頼を放棄させ、キリストに頼るようにと私たちを導くのです。そのとき、このくびきは砕かれます。そして、キリストが聖霊を通して私たちの内で生きてくださり、愛と喜びと力に満たされて歩むことができるのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちは、立場においてすでに律法から自由とされています。もう自分の意志の力や努力によって歩む必要はないのです。私たちには、愛するキリストに頼る幸いな生き方が与えられています。どうか、またと奴隷のくびきを負わせられることがありませんように。

(続く)

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