聖書メッセージ

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ロトが失ったもの(その2)

3.あかしの力
「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」(創世記19章14節)

ロトは、御使いたちから主がソドムの町を滅ぼそうとしておられる事を聞きました。そこで、ロトは娘の婿たちにその事実を伝え、直ちに逃げるようにと警告しました。しかし、婿たちは、義父の語ったことを冗談と思い、決して信じようとはしませんでした。

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ロトが失ったもの(その1)

「ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。・・・ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。」 創世記13章11~12節

神が「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(ヨハネの手紙第一2章15節)と語られるのは、決して私たちから意地悪く何かを取り上げるためではありません。むしろ、世を愛することの悲惨な結末から私たちを救うための警告なのです。神がアブラハムに約束された祝福の地を離れてソドムを選び取ったロトの人生は、世を愛することの悲劇を私たちに教えています。特に、創世記19章は、ロトが失ったものを教えています。

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神からの警告

「あなたがたは語っておられる御方を拒まないように注意しなさい。もし地上で警告していた者を拒んだ者たちが、(さばきを)逃れることができなかったのなら、ましてや、もし私たちが、天から警告しておられる御方から離れ去るなら、さばきを免れることがありえるでしょうか。」 エマオ出版訳 へブル人への手紙12章25節

私たちの身の回りには、警告を促す看板や標識がたくさんあります。たとえば、不放投棄に対する罰則を警告する看板や速度超過の取り締まりを告げる標識などがそうです。そのような警告に対して私たちが取り得る態度は、警告に聞き従うか拒むかのどちらかです。もし、語られている警告を無視してやりたい放題に生きるなら、すなわち、警告を語っている国家の権威を拒むならば、当然のごとく法律に基づいて処罰を受けることとなるのです。

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ラハブの信仰

「ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。『行って、あの地とエリコを偵察しなさい。』彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。」 ヨシュア記2章1節

ヨシュア記にラハブという名の女性について記されてあります。彼女は、エリコに住んでいた異邦人であり、遊女でした。身分においても状態においても、本来ならば、神の祝福からは最も遠ざけられるべき人であり、イスラエルの剣によって真っ先にさばかれるべき人でした。

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いなくなった羊

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 ルカの福音書15章4節

イエス・キリストは、羊飼いのもとからいなくなった一匹の羊についてのたとえを語られました。それは、私たちに、とても大切な真理を分かりやすく教えるためでした。

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いつも主のわざに励みなさい

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」 コリント人への手紙第一15章58節

パウロは、コリントの信者たちに「いつも主のわざに励みなさい。」と書き送る必要がありました。なぜなら、主のわざに励んでいた彼らを動揺させる誤った教えが、コリントの教会に入り込んでいたからです。その誤った教えとは、「死者の復活はない」(コリント人への手紙第一15章12節)という教えです。死者の復活とは、キリストが花嫁である教会を天に引き上げるために空中まで迎えに来られた時に、キリストにある死者が栄光のからだによみがえらされるという教えです。死者の復活がないということは、つまり、人間は死んでしまえば終わりであり、肉体が土に帰るだけであるということです。

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第二の死

「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」 ヨハネの黙示録21章8節

人間にとって、死は極めて現実的で身近な問題です。生まれてきた以上、人はいつか必ず死を迎えます。そして、死はいつ私たちに訪れるのか分かりません。もしかすると、あなたにとって今日が人生最後の日になるかもしれないのです。ですから、今日という日に、死についての確かな答えを知って頂きたいのです。

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恵みのゆえに救われた

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」 エペソ人への手紙2章8節

恵みとは、愛される資格の無い者を愛する愛であり、受ける価値の無い者に施す憐れみです。キリストを信じた私たちは、私たちの才能のゆえでなく、行いのゆえでもなく、ただ恵みのゆえに救われたのです。

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神を恐れる

「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなた方に教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」 ルカの福音書12章4〜5節

「神を恐れなさい。」と聖書は語っています。神を恐れるというのは、神を心から敬い、神の目を意識して生きるということです。それはちょうど、子どもが自分を育ててくれた親を尊敬し、親が何を喜んでくれるのか、何を悲しむのかを日頃意識しながら生きているのと同じです。神に生かされている私たち人間が、私たちをお造りになった神を恐れ敬うのは、当然の態度です。あなたは、神への恐れを持って生きておられるでしょうか。

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からだは聖霊の宮である

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」 コリント人への手紙第一6章19~20節

私たちのからだの所有権が神にあることを知るのは、とても大切なことです。この世の人々は、神のご支配を拒んでいるため、神の所有権についても無視しており、いのちもからだも自分の所有物であると考えています。そのため、自分勝手にからだを用いることが悪であるとは考えていません。コリントの町では「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。」「からだは不品行のためにある」(コリント人への手紙第一6章13節)といった考えが一般的となっていて、コリントの町の多くの人々は、欲望を満たすために自分のからだを用いていました。その結果、彼らは性的不道徳に陥り、自らのからだを傷付け、人生を破滅に導いていたのです。

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