聖書メッセージ

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最新メッセージ

再臨の希望(その5)

4.愛する主とお会いする
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。・・・次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第一テサロニケ4:16〜17)

空中再臨を待ち望んでいる信者の最大の楽しみは、愛する主とお会いすることです。かつてラザロは「御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれ」(ルカ16:22)ましたが、光栄ながら、私たち教会が天に迎え入れられるにあたっては、主イエス自らが、直々に下って来てくださるのです。そして、空中で主とお会いし、「キリストのありのままの御姿を見ることができる」(第一ヨハネ3:2)のです。

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キリストの誕生と死

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」マタイの福音書2章10〜11節

今から約二千年前に、イエス・キリストは、ベツレヘムという町でお生まれになりました。その後しばらくして、東方から博士たちが、幼子イエスを拝むためにやって来ました。そして、博士たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。これらの贈り物は、当時では大変高価なもので、幼子にささげるようなものではありませんでした。特に、没薬は死者を埋葬する時に用いる防腐剤でもあり、死を意味するものであったので、生まれて間もない幼子への贈り物としては、一見失礼なものであったはずです。どうして、博士たちは死を象徴する贈り物をささげたのでしょうか。それは、イエス・キリストの死が、この博士たちに、いや全人類に大いなる救いをもたらすものであったからなのです。

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再臨の希望(その4)

3.行いに応じて報いを受ける
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(黙示録22:12)
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠された事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(第一コリント4:5)

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再臨の希望(その3)

2.栄光のからだに変えられる
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)

今、私たちが持っている肉体は、アダムの罪によってのろわれた「卑しいからだ」「死ぬべきからだ」です。旧創造の世界に属するこのからだの中には、罪に支配された肉があり、それが常に私たちの新しいいのちに対して戦いを挑み、私たちの歩みを妨げてきます。肉は、このからだから消滅することはありませんし、その力が弱まることもありません。ですから、この肉体にとどまっている限り、肉との戦いは日々繰り返されるのです。

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再臨の希望(その2)

パウロは次のように書いています。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20)
「主よ、来てください。」(第一コリント16:22)

ヨハネもまた、「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)と語って、自分が生きている間に主のご再臨があることを信じて待っていました。

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再臨の希望(その1)

「キリストは、一度、多くの人の罪を負うために、(いけにえとしてご自身を)ささげられました。二度目は、罪(のためのいけにえ)とは関係なく、救いを切望している者たちのために現れてくださるのです。」 ヘブル人への手紙9章28節

聖書は、主イエスの再臨について教えています。主イエスは、一度、罪人を救うために贖いの御業を成し遂げるためにこの世に来られ、ご自身を罪のためのいけにえとしてささげられました。そして、主イエスは、再び別の目的をもってこの世に来られることが約束されています。主イエスの再臨には、空中再臨と地上再臨の二つがありますが、特に教会のための再臨である空中再臨は、私たちにとって素晴らしい希望です。

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唯一の救い主

「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」 使徒の働き4章12節

聖書は、イエス・キリスト以外には救いはないと語っています。また、イエス・キリストご自身も「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。」(ヨハネ10:9)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と語られて、ご自身こそ唯一の救い主であると宣言されました。このような独善的な主張に対して「極端で心の狭い考え方だ!」と反感を抱かれる方もあります。しかし、「これだけが正しい」と主張することは、本当に良くないことなのでしょうか。

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神の息が吹き込まれてある聖書

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」テモテへの手紙第二3章16節

聖書は神のことばであるので、誤りがなく、その一点一画も決してすたれずにすべてが成就される、完全かつ絶対なる書物です。従って、聖書は、私たちが全幅の信頼をもって読むべきものであり、服従すべきものです。聖書を神のことばとして信じる者は、この点について心から同意されるはずです。しかし、聖書の卓越さはそれだけではありません。聖書は、誤りのない書物であるばかりか、力ある書物なのです。完全な書物であるばかりか、生きて働きかける書物なのです。

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あなたの職業は何か

「パロはヨセフの兄弟たちに尋ねた。『あなたがたの職業は何か。』彼らはパロに答えた。『あなたのしもべどもは羊を飼う者で、私たちも、また私たちの先祖もそうでございます。』」 創世記47章3節

エジプトに寄留することになったヨセフの兄弟たちは、エジプトの王に職業を尋ねられた時に、「しもべどもは羊を飼う者です。」と答えました。ヘブル語本文では、「羊を飼う者」ということばが冒頭に来ており、自分たちの職業を特に強調して語っていることが分かります。

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主に仕える決断

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。」 ヨシュア記24章14節

ヨシュアは、イスラエルの民をそれぞれ自分の相続地に送り出す前に、民への最後のメッセージとして、「偶像を除き去り、主に仕えなさい。」と強く語りました。驚くべきことに、イスラエルの民は、主なる神によってエジプトから贖われた時も、四十年の荒野の旅程を守られていた時も、カナンの先住民をその手に渡されていた時も、ずっと偶像を持ち続けていたのです。一方で主による守りを受けながら、もう一方では偶像を頼りとしていたのです。なんと人の心とは愚かでしょうか。このことは、如何に人の心が、偶像に執着する傾向にあるのかということを物語っています。

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