聖書メッセージ

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ルツとオルパ

「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』 ルツ記1:16

ルツ記1章には、ルツとオルパという二人の女性が登場します。この二人には、いくつかの共通点があります。まず主の集会に加わってはならないモアブ人(申命記23:3-6)であるということ、それからイスラエルからききんを逃れてやってきたエリメレク一家に嫁いだこと、そして夫に先立たれてしまったことです。モアブ人に生まれた彼女たちにとって、主の民であるイスラエルの男性と結婚することができたことは、幸いなことでした。本来、神の祝福から遠ざけられていた彼女たちが、結婚によってイスラエルに加えられ、神の祝福に与る特権を得たからです。ところが、その特権も夫の死によって失われようとしていました。

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3つのくびき(その7・最終回)

このように、主イエスのくびきを負うならば、主イエスが心優しく教えてくださり、着実に信仰によって歩むということを実習させてくださるのです。

また、主イエスは、へりくだって導いてくださいます。へりくだってとは、私たちの幼い信仰に合わせてくださるということです。すなわち、今の私たちの信仰で担える奉仕を負わせてくださり、耐えられる試練を与え、訓練してくださるということです。

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3つのくびき(その6)

ヤコブは信仰を持っていながら、肉の力によって歩んだ人です。彼は、神に頼るよりも、自分の知恵に頼って行動する人でした。彼は、取引によって兄から長子の権利を買い取り(創世記25章)、父を欺いて祝福を横取りし(創世記27章)、伯父ラバンに一泡吹かせようと自分の群れを増殖させ(創世記30章)、エサウの怒りをなだめようと手を尽くしました(創世記32章)。しかし、主は、このような肉的な人を信仰の人へと導かれました。主は、ヤコブにとって重要な局面において何度も彼の信仰を励まされました(創世記25:23, 28:13-15, 31:1, 32:1)。

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3つのくびき(その5)

3. 主イエスのくびき

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29、30)

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3つのくびき(その3)

2.つり合わぬくびき

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14)

私たちが避けなければならないもう 一つのくびきは、つり合わぬくびきです。申命記22:10には「牛とろばとを組にして耕してはならない。」と書かれてあります。牛は聖い動物であり、ろばは汚れた動物です。牛とろばとでは、習性も、歩く速度も、荷を引く力も異なるので、全くつり合いがとれません。それと同様に、信者と不信者とでは、立場も価値観も主人も人生の目的も全く異なるので、何のつり合いもとれません。それなのに、もし私たちが不信者とくびきを共にしてしまうなら、確実に私たちの歩みが損害を受けます。その実例はヨシャパテ王です。

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3つのくびき(その2)

もし私たちが実際的に神に依り頼んでいないのなら、私たちは律法主義の何らかの形、すなわち「奴隷のくびき」にはめ込まれているのです。その結果は、「あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。」(ガラテヤ4:15)、「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。」(ガラテヤ5:7)とあるように、喜びと力の喪失です。なぜなら、神に頼ることを止めたとたん、私たちは負いきれない重荷を自分ひとりで背負うことになるからです。

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3つのくびき(その1)

くびきは、2頭の家畜を一組みにするための横木で作られた農具です。くびきをつけられた家畜は、横木にしっかりと固定され、もう1頭の家畜とペアを組んで労働を共にします。ですから、聖書全体を通じて、くびきは「束縛」や「連帯性」を表すものとして用いられています。

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セカンドチャンス論への反論

セカンドチャンス論とは

セカンドチャンスとは、福音を聞くことなしに死んだ人々にも、死後によみの世界で福音を聞き、救いの機会が与えられると説く教えです。この世における回心の機会をファーストチャンスとし、それに対して死後における回心の機会をセカンドチャンスとしています。

セカンドチャンス論者は、「不信者が死後直ちに行くハデス(よみ)は最終的な刑罰の場ではないから、回心の機会がある。ハデスは地獄ではなく、人生を振り返るための場であり、回心を促すためにある場所である。」と主張し、ハデスで回心すればゲヘナ(最終的な刑罰)から救われると説きます。

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限定的贖罪論への反論

限定的贖罪論とは

限定的贖罪論とは、主イエスの十字架の贖いの死は、救いに選ばれた者のためだけであり、すべての人のためではないとする教理です。これは、カルヴァン主義神学の5つの特徴の内の一つです(ジャン・カルヴァン自身は、晩年に無制限の贖罪を受け入れたようです)。カルヴァン主義者は、「キリストの贖いがすべての人のためであったとするならば、万人が救済されてしまうが、実際には滅びる人がいるので、キリストは選ばれた者だけを確実に贖われた。神がすべての人を愛されたというのは、特定の選民すべてを愛されたという意味で、他の人は神の特別な愛を受けることはできない。」と主張します。

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